日中友好に尽した鑑真
朝貢(これは一種の貿易)に際し、爵位名「琉球」を命名されました。
しかし、他称ですから、日本における「ジャパン」の名前に似ています。
国王の存在をいう人は、朝貢時の足利義満が「日本国王臣・源道義」と名乗って朝貢した事実をも合せ考え、朝貢国は属領ではないと知るべきでしょう。
鑑真らの一行が漂着して、住民に島名を訊いたら「阿児奈波(おちなは)」と答えたのは至って当然でした。
これは現在、わたしたちが沖縄ツアーなどで訪れるあの沖縄のことです。
更にいえば、大正時代、読書とあまり縁のなさそうな人の口から「琉球」という言葉をきくのは至ってま
れだったそうです。
さて、鑑真の経歴を見てみましょう。
彼の日本仏教に与えた功績と、日中友好に尽した功績は絶大といわれています。
和上は688年、中国(唐)揚州江陽県に生れました。
2歳の時、則天武后が死去し権力の移動がありました。
鑑真は幼時、世の悲劇を見、14歳で仏門に入りました。
揚州は内外貿易の盛んな反権力ムードの豊かな都会でした。
大運河の起点でもあり、和上の国際感覚はこの環境で培われたものと思われます。